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マウィミウオの世界

間鵜井美魚の生活雑記録

安魚の国に帰ろう

f:id:mauymiuo:20170526081317j:plain安魚がしょっちゅう口にする言葉に、安魚の国というのがある。
「安魚は安魚の国から来た」
「安魚はもうすぐ安魚の国に帰る」
美魚はそれを聞くと何故か切ない。最近はバージョンが増えて
「安魚の国のお母さんに怒られるから帰るね」だったり、前日雨上がりに虹を見たとき
「虹を渡って安魚の国に帰ろう!」
「みーちゃは虹の橋を渡ってみーちゃの国に行っちゃった」などと、まるで彼岸を思わせることを言う。
安魚の国が出てくるようになったのは、3歳直前くらいだろうか。
「安魚の国は何処にあるの?」
と試みに尋ねると、
「頭の中だよ!」
頭の中の想像の世界なんだろうか。
「どうやって行くの?」
「マントでビューんて行くんだよ」
「でもマントがないから行けないよ」
「安魚はもっと大きくなっておじいちゃんになってまた小さくなって行く」
それを聞くと胎内回帰みたいである。
美魚はずっと安魚に胎内記憶を尋ねる日を楽しみに待っていた。3歳2ヶ月、そろそろ頃合いだろうか。
「お腹の中のこと覚えてる?どんな感じなの?」
「安魚の国は紫の電気がついてる」
「安魚の国で何してたの?」
「ぷかーって飛んでた」
「どうやってここに来たの?」
「頭から水に飛び込んでドバーッと出て来た」
なるほど。安魚の紫好きはここから来ていたのか。紫は臓器を思わせる。美魚はその日、自分の胎盤をトレーの中に見た。赤紫で、平べったくて、深海魚みたいにぶよぶよしていたことだ。ここに包まれていた安魚は、まだ記憶を残しているのだろう。そして何時でも戻れると思うらしい。胎内は近くて遠い。彼岸と此岸ほどの距離がある。だが、安魚はおじいちゃんになってまた小さくなると行ける、と語る。死後の魂は転生するのだろうか。何故そんなことを言うのだろう。7歳までは子供は神様の所有だと聞いたことがある。神様の力が働いて子供は生きてるし、神様の所に帰ってしまうこともあり得る。美魚は寂しくなる。
「お母さんも安魚の国に一緒に行こうね」
「まだまだ一緒にいるからね」
「ずっといるからね」
安魚の国を口にしたあとはちゃんとフォローする。子供は親の所有には出来ない。だが、手放すのは寂しいことだ。美魚は自身の親とは縁が薄いような気がしているが、やはり因縁の糸は裁ちがたいものだ。未だに安魚の顔すら見ようとしない美魚の父も、よそのオッサンだとは思えない。美魚の中にはどっかり居座っている。だからこそ恨みも捨てられない。かつては幼い美魚を連れて競輪場に行ったりしていた父。子供が小さくて思い通りになるうちは可愛いのだろう。子供を自分の所有と考えているためだ。成長し、自分の意見を言ったり逆らうようになると、
「生意気でバカでしょうがねえ!てめえなんて出ていけ!」
「バカ女!」
になるのだろう。いや、美魚の父は初めから
「女はどうせ出ていくから、金かけてもしょうがねえ」
と揺るがない主義を持っていた。女は出ていく、嫁に行くからだとしても、そんなん言わなくてもいーじゃん。なので美魚はちゃんと忘れず、入籍した時に籍を抜いて新しく戸籍を作った。間鵜井の名字を捨てなかったのは漁太郎が
「名前変える機会なんて滅多にない」
と自分の名字を捨てたからで、美魚は嫁に行くことに反発したのである。因みに数年経ってからそれに気がついた父は
「籍を抜きやがった!」
と激怒したそうである。矛盾しているようで当然にも思える。追い出しても親子のままでいたかったのだろう。美魚も美魚の国に行ってしまったのさ。

ひけるギターをひくんだぜ

f:id:mauymiuo:20170521091743j:plain安魚はダイソーでオモチャのギターをねだり、美魚は3度目くらいで買い与えた。すぐ飽きると思ったのだが、
「みんな~友達~」
「ひけないギターをひくんだぜー」
「安魚の~コンサート~」
などと毎日かき鳴らして歌ったことだ。
踏んづけてバキっと割れた所を
「お母さん直して~」
とテープを持ってくること数回、ついに使い物に成らなくなってしまった。
美魚はまたダイソーで買ってやるつもりであったが、漁太郎は安魚を連れてお茶の水まで出向き、ウクレレを買い与えた。f:id:mauymiuo:20170521091859j:plain
美魚は楽器店と言うものは敷居が高くて入りづらい。音楽の素養は一切持ち合わせていないし、縁もゆかりもない。イメージの客層は見るからにロックンロールな人々で溢れているのかと思っていたが、小綺麗な若者ばかりであった。それは画材屋にベレー帽を被った人々が溢れている古臭いイメージと同じであろうか。漁太郎は楽器店を巡って、一番安価な店で安魚にチョイスさせる。安魚は店先の吊るしの赤いウクレレをチョイス。だが、支払いを済ませ品物を受けとる寸前に
「やっぱり紫がいい」
と言い出す。安魚は紫色が一番好きだ。絵の具もクレヨンも紫ばかり使う。紫の履歴書を安魚も書くのだろうか。
早速帰って取り出す。まず音が全然違う。2400円だが、玩具ではない。
安魚はかき鳴らしてみて、
「なんかさみしい音がする」
漁太郎も美魚もコードなど知らない。ウクレレってなんか陽気な気がするんだけと、妙に寂しくなるのは何故だろう。

安魚、こども園を見学

年中入園させる予定の安魚。家から歩いても行ける私立幼稚園は3件。自転車を使うと数は10件ほどになるが距離はマチマチである。いわゆる金持ちお勉強系幼稚園は除外すると(お受験だから途中入園なし)、一般的な幼稚園、お寺、カトリックこども園に分類できる。こども園は0歳から3歳までは保育園で、4歳から幼稚園になる。公立なので二年保育のみである。安魚の二年保育を決めた時から勿論念頭にあった園だ。だが、こども園はベールに包まれているように思われる。ホームページも曖昧だし、直接見学するほうが早い。
美魚は安魚を連れてこども園を訪れた。女性の園長に直々に概要を説明していただく。29年度総定員は107名。内4歳児は長期、短期合わせて29名。新たに募集するのは短期保育の15名であった。
「こちらは普通の幼稚園とはかなり異なっていまして…」
美魚は手渡されたパンフレットに目をやる。
9時の登園(自由遊び中心) 
12時お昼(以後自由遊び)
2時の降園
その他諸々年間行事。
「何かを教えたりする時間は殆どありません。まずそこをご理解ください」
「一応、発表会や運動会みたいなものもありますが、大人が見て楽しむより、こどもが楽しんでやりたいことをやる感じですね。地味です」
まさに理想的である。ただ与えられたスケジュールをこなして行くのでは子供の自主性は育たない。
でも一番知りたいのは、入園についてである。
「定員は15名ですね。抽選できまります。外れた方は順位を決めて待機していただくか、私立幼稚園に行かれますね。今年は待機で5名入りましたね」
倍率は高いが、入れたら素晴らしいと美魚は思う。その理由の1つは格安だからだ。入園時に標準服という制服もどきを買うそうだが、8000円から9000円とのこと。その他準備品も微々たる金額。月謝は階層によるが、間鵜井家では6000円である。私立は入園金、考査料、設備費用、制服、用具類と初めにかかる。そして月謝は30000円近い。区の補助があってもかなりの金額になるだろう。公立って、タダみたいな値段だなと改めて思ったことだ。
申し込み書は10月に配布とのこと。
「では館内をご案内しましょう」
華美はなく質素その物なのがまた良い。子供の自由に任せて室内遊び(遊具は殆どなし。小さい児童館より少なそう)、そと遊びがチョイスできる。園庭には手作り感満載の遊具(小屋やビールケースのキッチンなど)。今時のピカピカなキャラクター遊具など公立には無縁らしい。実に好感がもてる。園庭を遊んでいってよいとのこと。園児たちはばらけて数人ずつで遊んでいる。ほぼ自由時間しかないなんて…遊具はろくにないが、一応プールがある。砂場には水道完備。園庭の至るところで水しぶきがあがっている。彼らは水と泥があればそれで充分なんだろか。野菜のプランター。職員は8人くらいが散らばって監督している。お遊戯や、楽器の音は聞こえない。給食食べてまた遊び呆けるだけなのか。いいな。
美魚は見学を終えて安魚に、
「ここ、いいじゃん。来たいね」
すると安魚は、
「来たくないけど」
「ただ遊んでりゃいいんだよ?」
「安魚はお母さんと友達だから」
1人で通うのが不満らしい。でもみんな親から離れて社会の中に放り込まれるんだよね。それは何故なんだっけ。
漁太郎は幼稚園なんて行かせなくてもいいと言う。今時保育園や幼稚園に行かせない親はろくでなしのように思われるが、実際どうして行かせる必要があるのだろうか。幼稚園は教育機関であり、義務教育以前に必要なことを学習させる場所。だが、このこども園では学びは自主性に任せているという。遊び中心、遊びから学ぶこと。放任のように思われないこともない。美魚はいいと思うが、まだ時間はある。何が一番いいのか考えて見なくてはならない。抽選に漏れたらどうするんだ。美魚はカトリックも捨てがたいのであった。

安魚の予感

f:id:mauymiuo:20170515074553j:plain先日、美魚は安魚を連れて東京メトロに乗った。大した用事はないが、2駅先の街をぶらつくつもりであった。自転車で行ける距離だが、安魚は電車に乗りたがる。美魚の家から駅までおよそ徒歩8分。だが、3歳の足だとまともに歩いて18分はかかる。この日安魚はいつにも増して全然歩かない。半分の道程に優に30分はかかっている。美魚はしびれを切らせて安魚の手を引っ張って駅へ向かう。信号を渡れば駅である。美魚が安魚の手を握って渡たり始めると、彼は突然わめき始めた。
「離してーっ!帰るのぉ!」
安魚は横断歩道にしゃがみ込み、びっくりするほど抵抗する。
美魚はズルズル安魚を引き摺って明滅する青信号を渡り終えると、帰る!を繰り返す安魚にイライラして尋ねた。
「なんで?!乗りたいんじゃないの?」
安魚は普段電車が大好きである。去年の夏の猛暑日などは、乗り継ぎを繰り返し、終日電車に揺られていたことだ。電車と言うだけでいそいそ出かけたこいつが、今、予防接種を嫌がるどこぞの子供のごとく泣きわめくのが解せない。大した用事はないがここまでたどり着くまで40分はかかった美魚は引き返すのも嫌だった。またズルズル安魚を引き摺って改札を入り、強引に電車に乗り込んだ。すると安魚は
「ギャーッ!!降りるのぉ!」
と大泣きを始めた。さすがの美魚も電車を降りるしかない。
「なんでなの!」
発車した電車を尻目に安魚をなじる。安魚は泣きじゃくっているだけだ。
「んもー分かったよ帰るよ!」
美魚がエレベーターに向かおうとすると、今度はもう一人の安魚が出てきて美魚の足にしがみつき、
「帰らないよ!電車に乗るのぉ!えっえっえぇ~」
お茶を飲ませて落ちつかせ、美魚は次の電車に乗り込んだ。ケロリとしてご機嫌な安魚に尋ねてみた。
「さっきはなんであんなに騒いだの?」
「…さっきやな感じがしたから」
「それで乗りたくなかったの?」
「そう」
ホントかしら。魔に遭遇しそうだったのかしら。単なる気まぐれ…。しかし、安魚はふだん人前でギャーギャー泣きわめくことはない。美魚もそれをもてあまし怒りに震え立ち尽くす母親を演じたことなど一度もない。美魚はふと、第六感という言葉が閃いた。何事もない日々に魔はすれ違う。魔は人間をよけて通るが、人間がわざわざぶつかるものだと泉鏡花草迷宮にそんな感じに書いてあった気がする。美魚は嫌がる安魚を魔に遭遇させようとしていたのであろうか。目的の駅に着き、マルイ直結の連絡通路をその日は何故か忘却し、わざわざ反対側の遠い地上出口に出てしまったことも、美魚をしてキツネに摘ままれたような気分にさせたことであった。美魚は東急ハンズでピタリングを買い、安魚にイチゴのパンを買った。これだけのことにこの大騒ぎ。その日の教訓は、
「さっさと止めて帰れよ!」
それ以上でもそれ以下でもないのであった。

3歳の子供は平日ぶらぶらしないらしい

f:id:mauymiuo:20170514114416j:plain美魚はペン画をはじめる。安魚がしょっちゅうアトリエに
「お母さん迎えにきたよ」
と呼びにくるので進まない。漁太郎はGW中は持病の腰痛が悪化し、横になり入浴で痛みを和らげて過ごしたことだが、今日久々に安魚を連れて外出した。美魚は蒲団を上げて掃除機をかけると、出来るだけ進めようとペンをとる。
昨日は安魚に日本脳炎二期を接種させるため、再び病院を訪れた。女医は診察室に入ると安魚に向かって、
「今日はお休みしたの?」
と唐突に言葉をかけた。
「…ああ、まだ幼稚園いってないんだったね」
「はあ、来年です」
そうか、平日に予防接種にくる子はあまりいないのか。美魚はやっと意味が分かった。今回の安魚はまったく動揺せずに、接種を済ませた。強いねーともてはやす大人たちに、 
「痛いのは痛いけどね」 
などとコメントし、笑いをとる安魚。病院の横手には樹木の茂る公園があり、安魚は待ちかねて飛び込んで行った。折しも昼下がり。ベンチにはまばらにサラリーマン。貸し切り状態の砂場で安魚と泥団子をこねていると、つかつかと近づいてくるスーツの男性。美魚は多分コープ系のアンケートと言う名の勧誘だろうな、と待ち受けた。
「今日はー。今、ヤクルトさんを募集してまして」
なんだ、そっちか。ヤクルト購買の勧誘はときどきレディースの訪問を受けることだが、安魚がノコノコ玄関さきに出てくると
「可愛い!」
「今いくつですか?」
に続いて、
「今どこかに通ってるんですか?」
と聞かれることがある。
「いいえ、来年幼稚園の予定で」
これがレディースのタイムリーな受け答えらしく、
「一度ヤクルトの託児所の見学に来ませんか!」
と始まるのだった。
美魚は働くつもりはさらさらない。ヤクルトさんは週に5日も働いて、およそ5万くらいだという。頑張れば稼げます、皆子育て世代で、協力しあってます、お古を譲りあったり、子育ての相談もできます、お休みしたい時は前日に2本配ったりできます、今お時間あれば、託児所に見学にいきませんか!
矢継ぎ早に笑顔で説明する男性に、さも興味ありげに相づちを打っていた美魚は
「経済的に今働く必要ないんで」
と笑顔で辞退した。
「あ、そうですか…じゃあ」
男性は、早く言えと言わんばかりに公園から立ち去っていった。雨の日も風の日もヤクルト配れるガッツがあれば、生活を安魚の幼稚園リズムに合わせられないという理由で二年保育をチョイスしたりはしない。世間並に子育てをするには、まずは環境。あらゆる方向性を幼児期に指し示すこと。そもそも美魚は3歳はまだ家にいて、ぶらぶら連れ歩く歳だと思うのだが、貧乏人の言い訳だろうか。
ああ、こないだ世界堂でペン先も買えば良かったな…3年ぶりだしあんまいいやつ残ってなかった。美魚は使用済みばかりのペン先に舌打ちしたことだ。

自己満足は不満足

f:id:mauymiuo:20170502082457j:plain漁太郎はフリマが好きである。安魚を連れてよく覗きに出かける。漁太郎と二人で自転車を並べて外出する時、およそ美魚は目的地を知らない。だが、土日などにわざわざ大きな公園に行くのはたいていフリーマーケット目当てだ。漁太郎は安魚の服を熱心に漁る。安魚はがらくたを物色し始める。その後ろにボンヤリ立っている美魚。所在なくうろつき始めた先に、目に痛いほど輝くジルコニアリングが並べられていた。思わず美魚は、右手に嵌めたリングと見比べてみたくなった。0・65カラットの石を、0・53カラット相当のメレダイヤが囲む、母親のお下がりのノーブランドリング。大きなダイヤを有難がるバブリーな時代は終焉を迎えたが、美魚は好きである。トータルで1カラットはないとつまらない。ティファニーなら云うことなしだが、ティファニーを儲けさせる必要はない、と負け惜しみも出たりする。だが、大事な指輪はまるでジルコニアと大きさも輝きも変わらないではないか。手に取ればこちらはアームなど玩具感満載だが、一見どちらもダイヤであり、ジルコニアである。馬鹿な…
「着けて見てくださいねー」
声をかけられ、あわてて離れる美魚。
少しナーバスになったところに漁太郎が近づいてくる。
「あっちにヴィヴィアンあった」
見れば割と使用感の、黒いカード入れに小さくオーブのついた代物。
「1500円で」
と50代後半の女性が答える。いらない。目で漁太郎に伝える。
「じゃあ1000円でいいですよ」
それでもいらない。すると女性は
「これ、ブランドなんで…」
と安売りできないオーラを出すのだった。美魚は20年来ヴィヴィアンが好きである。その日も服、バッグ、時計を身につけていた。たとえパッと見ジルコニアだとしても、美魚はダイヤモンドなのを知っている。刻印されてるから。オーブがついて無くともこれらアイテムがヴィヴィアンなのを美魚は知っている。買ったから。ブランドは自己満足でしかないのだが、やはり他人の千里眼でも期待している自分がいる、と美魚は思う。やがて女性は、カード入れをノートや皿や、雑多なものの前に、また目立つように置き直したことだった。

モラトリアム続行中

f:id:mauymiuo:20170424072834j:plain新宿世界堂に行く。誕生日を迎えた美魚は、漁太郎にねだる物を考えていた。一番欲しかったのはティファニー。だがそれを言い出す事ができない。特にティファニーなど、大ブランドの価値を疑うことをモットーとしている漁太郎には絶対受け入れ難い代物である。美魚はメディウム数点とカラーインクセットを漁太郎に買ってもらった。世界堂を出て、伊勢丹が目に入るが、二丁目方面に足を向ける。ぶらぶら散歩しつつ、なんとなく曙橋まで歩く。そーだ、久しぶりにセツに行ってみたいな、と美魚は思う。だが、まったく思い出せないのだ。曙橋駅から出て、直ぐだったことは覚えている。フレッシュネスバーガーがチラッと目に入った時、美魚は十数年ぶりに記憶が蘇った。外観は経年を感じるものの、美魚が学んでいた頃とほぼ変わらないままであった。ちょうど卒業制作数点が展示されていた。懐かしのセツタッチ、かの伝統は受け継がれていた。美魚はこの絵が描けなかった。流れる瀟しゃなライン。ファッション画。憧れのA。美魚がしばしば指摘された「これは制作だね」の言葉は、今も頭に残る。確かに美魚はアートではない。制作である。アートとは伝統のラインを習得し伝承することなんだろうか。美魚は反発を覚えつつも、セツの雰囲気だけは愛していたことだ。美魚は年をとり、子供がいて、その子供をセツの前に立たせたりする。美魚はティファニーが欲しいと思ったりする。そしてそれを今自分で買う事ができない。会社員の頃なら簡単に買えたが、今は無理である。美魚は重たい世界堂の袋を指に食い込ませ、セツを懐かしそうに眺める自分に何となく嫌気がさして、石段を登った。